天王寺書房

本と本の間で感じた言葉について

繰り返す思索の中に

  ずっと読んでみたいと思っていた、吉田篤弘氏のエッセイ、ついに読みました。

京都で考えた

京都で考えた

 

  

 忘れられていくものを引きとめようとすることも、本を読むことも、決めつけられたものに「本当にそうか」と疑問を呈することも、小説を書くことも、そして、本の中から言葉を見つけ出してくることも、すべて「そもそも」を知りたくてつづけてきた。

 そもそもの始まりはどうだったのか。われわれがいまこのように在るのは、そもそもどうしてなのか。

 結論や結末ではなく、いつでも「そもそも」を知りたい 。  

 

 すばらしい…歩くことや、本を読むことなど、ずっと、人間の行動と思索には、何かつながりがあるようで、ないような、モヤモヤした感じがあったのですが、この文章でスッキリしましたw。

 

 一方で、職業がら「そもそも」というと失敗学を思い出します。

失敗学と創造学―守りから攻めの品質保証へ

失敗学と創造学―守りから攻めの品質保証へ

 

  そもそも、何が原因で失敗したのか?という、失敗からの学びを、他の分野で生かすには?

 この書では「過去の失敗から、上位概念に登り、自分事として想像する」ということを解説しています。そして、それは「創造」にも、つながる考え方だと。

 

 自分の中で、止まることのない、もやもやした思考…そこに、何かいつもと違うものが挟まると、いつもの思考の道筋が、少しだけ変わる。

 そのような繰り返しの末、見えてくるのは…いったい、何なんでしょうね。